百物語(の予定だったのですよ) その一 〜空〜   月読亭羽音

 この坂を登るのは何年振りだろうか。随分経っているんだろうけれど、つい昨日も登ったような気がする。
 実際、はたちの同窓会を校門前で集まって以来だから、もう二十年か。

 この長い、実に最高記録でも五分十七秒かかった坂道、これが母校の唯一の通学路である。駅から十分の案内、近い場所だな、と思っていたら、もっと駅から近かった。駅の直ぐ目の前、いや目の上だった。なんと通学時間の四分の三は、この坂に費やすのだ。かの最高記録の日は、今思っても、よっぽど体調が良かったのだろう。今日は、ここまでで既に十分を経過している。歳はとりたくないものだ。
 こういう事に時間がかかるのに、一ヶ月や一年の経過する感覚は学生時代より加速度的に短く感じている。ことに結婚してから、特に子供が出来てからなんて、あの頃の一ヶ月ぐらいの感覚で一年が過ぎる。
 一年前に生まれたような気がするうちの豚児が、なんせ母校に入学したのだ。なんとも信じられない、コウインヤノゴトク、などと漢字を思い出せない語句が頭をよぎる。
 自分の母校に息子が入学する。やはり、そのことは何とも気恥ずかしいながら嬉しく、いやがる息子を説得して付き添ってきたのだ。近年、母親の付き添いなど大学の入学式でも普通になっているのに、年少ながら硬派を気取るスポーツ少年の息子としては、かなり嫌な事だったらしい。その証拠に、電車を降りるやいなや、改札を飛び越え、坂をだだだだだだだと駆け登っていったのだった。あの分じゃ、母の記録など、初日にして突破してしまうだろう。まぁ、男の子だし。
 
 入学式に似つかわしく、桜の花びらが足元に寄ってくる。学校では大体がそうなのだが母校も例にもれず桜が何本も植付けらている。山から下りる風に、花びらが坂を走り落ちていく。
 後、どれぐらいで校門だろうか。ちょっと疲れて、ずーっと足元を見ていた。もうそろそろだと思うのだ。桜の花弁が増えてきたのは校門脇の古木のものだろうし、人声も大きくなってきている。
 不意に強い風が吹き、足元の桜が舞い上がった。
誘われるように視線を上げると、煉瓦塀が見えて、黒い校門…あっ、急に頭を上たせいか、目の前が真っ白、立ちくらみか!
それにしては目は回っていないぞ、と思ったら、何のことはない、真っ白なYシャツが目の前に立ちはだかったのだ。
視線を上げると、ぞっくとするいい男…・・・「遅いぞ!」の声にはっとすると、いい男に、見えた、気がした、が、息子だった。しかし、ちょっといつもより、しっかりした顔・・・でもないか、だけども本当に一瞬、ほんの一瞬格好よく見えたな。
 息子は私の真正面に立っていた。気がつかなかったよ、坂ばっか見てたから。
息子はこの坂で汗をかいたのか、ブレザーを左肩にのっけている。そんな生意気なカッコをするから、こっちが眩暈と勘違いするんだ。
「だらしがない」と文句を言おうとしたら、珍しくにっこり微笑まれた。
 何年ぶりだ、そんな顔を向けてくれたのは。
「校門ぐらい、一緒にくぐる?」
 でも、直ぐにいつもの仏頂面に戻って、
「門だけだぞ、門を越えたらダチが待ってるから」
息子は体を学校に向け直すと、5,6歩進み、歩くのを止めた。
「母さん、早く来いよ」
後ろ向きのまま、息子が私を呼ぶ。
そういえば、さっき、踵を返す時に、息子が手を差し伸べたような気がした。
幻視だろうか。でも、この声で確信した。息子は間違いなく≪手を差し伸べて≫
くれたのだ。

「いっぱしに大人になったな」
 さぁ、最後の坂に腰を伸ばして、上を見上げる。
少し滲んだ空は、高く、高く、高く、高く・・・ああ、好い天気だ。

   
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  花びらのゆくえを追えば初めてのYシャツを着た子の空がある 

                           青山みのり



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